淡路島・南あわじ市の司法書士・行政書士 安田知孝事務所/不動産登記・会社法人登記・相続・遺言・債務整理・裁判関係・農地関係ほか

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南あわじ市人物史

賀集珉平

1796(寛政8)年、三原郡伊賀野村の庄屋三郎兵衛の後継ぎとして生まれる。

醤油醸造業や漁業経営をしていたが、1823(文政6)年、28歳の時に泉州堺でたまたま京焼の名工、尾形周平に出会い、製陶業も始めることになった。

1832(天保3)年、珉平は製陶業に専念することにし、京都に上って尾形周平の門をたたき、その指導を受けることにした。周平は珉平とともに淡路に渡り、賀集家に約1年半滞在しながら指導をした。

珉平は経済的にも大きな犠牲を払って研究に励み、高級美術品から庶民の使う日用雑器に至るまで、多種多様なやきものを作ることに成功した。その製品は、廉価で売り出されたこともあって一般から大いに喜ばれ、「珉平焼(淡路焼)」の名が高まり、その営業が発展した。

1839(天保10)年ごろにはその生産額が淡路国産物の首位を占めるまでになった。この功績で、蜂須賀藩主から徳島城内に召され、「御用陶器師 勝瑞珉平」の名を賜って藩窯の運営にも努力したほどである。蜂須賀侯は2度、伊賀野の珉平窯を訪れている。

珉平は1871(明治4)年、享年76歳で没した。

その事業はのち淡陶社(明治16年創立、明治26年~淡陶株式会社)に引き継がれた。同社は大正末年に一般陶器の生産をやめ、タイル専門メーカーとなったが、現在も存続している(2006年、「ダントー株式会社」は会社分割をして持株会社になった上に「ダントーホールディングス株式会社」に商号変更した。同社は、現在でも登記簿上の本店を南あわじ市北阿万伊賀野1290番地に置いている)。

武岡豊太

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額田風外

南あわじ市北阿万新田中の観音庵(瑞宝院)に「風外額田先生之碑」がある。その碑文にはおおよそ次のように書かれている(と思われる)。

「先生は姓を阿知波、通称を健吉といい、風外と号した。天保10年(1839年)8月6日尾張国名古屋に生まれた。父は尾張藩士の阿知波正信で、その二男である。幼いころから学問を好み、やや成長してからは藩校に入り、その後江戸へも遊学した。帰郷後は藩主に仕えた。明治の初め、故あって京都の寺に入り、僧となり、姓名を額田某と改めた。数年そこで禅学を学び、また各地を回った。明治26年(1893年)、この庵に来て、10年あまり(現在の数え方では9年あまり)とどまり、空いた時間には子供に学問を教えた。明治36年(1903年)1月15日、享年65歳で病没、門人はこれを惜しみ厚く葬った。一男一女があったが、跡継ぎがなくなり家は絶えた。大正5年5月、今ここに門生らが話し合い、小碑を建てその略歴を記し伝える。
その遺徳は千年に及び、必ずこれを祀る者があろう。三百人の生徒は子孫に伝えていくだろう。」

この碑は、風外の門人らによって建てられたものであり、その碑の傍らには、門人三十数名の名が刻まれた石がある。その門人の名の中に、以下で登場する安田亀一や原田定市の名もある。

風外について、その門人が伝え聞いたところによれば、風外は「鳥羽伏見の戦いに敗れ、紀州に住み、後観音庵に住んだ」という。しかし、尾張藩は藩としては鳥羽伏見の戦い(1868年1月)に参加していない。あるいは、この戦いの直後に起こった、青松葉事件に関係しているのかもしれない。青松葉事件とは、鳥羽伏見の戦いを聞いた尾張藩内において、幼君を擁して幕府側につこうとした一派があったのを、徳川義勝(尾張藩の前々藩主にして当時の藩主の父)が急遽京都から名古屋に帰り、これを弾圧した事件である。この事件の真相は今なお謎らしいが、このとき重臣も含め14名が処刑されている。

碑

安田亀一

1883(明治16)年11月、安田常平の長男として、現在の南あわじ市北阿万新田中(当時は三原郡新田村)に生まれる。上述の額田風外にも教えを受け、1897年ごろ三原高等小学校を卒業。その後、日露戦争(1904-05年)に従軍したのち1909(明治42)年に日本大学専門部法科を卒業している。

1910年、東京市書記に任ぜられる。傍ら正則英語学校高等科に学び、1914年に修了している。ちなみに正則英語学校は、斎藤茂吉や石川啄木、石橋湛山も通った学校のようである。

1921(大正10)年には東京市主事となり、次いで同年東京市社会局中央職業紹介所所長に就任した。

なお、この前年の1920年12月に、後藤新平が東京市長に就いたときに、その助役として永田秀次郎が就任している。さらに1923年5月には、秀次郎が東京市長に就いた(1923~1924年、1930~1933年東京市長)。

永田秀次郎は三原郡長田村出身の人物であり、亀一は秀次郎の秘書をしていたという話もある。その真偽は不明だが、同郷のよしみで何らかの引き立てがあったことは想像される。

1923年9月、関東大震災が起こる。東京市中央職業紹介所所長の亀一は、この震災によって激増した失業者の救済に粉骨砕身して当たったという。この経験をもとに生まれた著作が『生活苦と職業問題-失業者に直面して-』(1924年12月)である。なお、この著書の序文を永田秀次郎が寄せていて、秀次郎は、「知友安田君は久しく東京市社会局中央職業紹介所長として其実務に当り、殊に最近の大震災に際し一時に激増せる失業者救済に対し有ゆる困難と戦ひ、其努力と其才幹とは広く世上の認識する所である」と記している。亀一は震災後の激務がたたって健康を害し、その著作を置きみやげにその職を辞した。

1926(大正15)年9月、亀一は東京を離れ千葉県社会課に社会事業主事として着任した。当時千葉県の社会課は前年に設置されたばかり、また亀一が同県で初めての社会事業主事であった。亀一はこの後、約12年間を千葉県で過ごし、同県の社会事業行政の基礎づくりに貢献した。

彼の業績のうちでも特色のあるものが千葉県仏教社会事業協会の結成とその運営であるという。同協会は、1934(昭和9)年に発足するが、県下の寺院住職を社会事業・社会教化事業に動員しようとするものであった。満洲事変後の準戦時体制の下、行政主導で運営され、「一寺院一事業」の達成を目標とし、かなりの実績をあげたようである。宗派を超えた府県単位の仏教社会事業協会は、当時全国的にも数少なく特異な存在であったという。

そのほか、亀一は、1926年に発足したばかりの千葉県社会事業協会で指導的役割を担った。1927年の方面委員制度(民生委員制度の前身)実施も亀一の努力によるところが大きいという。

1933年(震災から10年後)、千葉県の震災誌である『大正大震災の回顧と其の復興』(千葉県罹災救護会)が出版されたが、亀一がその編者になっている。
「編纂を終へて」の部分で、亀一は、「千葉県の大震災に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。(略)それにも拘わらず私は、このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。  あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、社会事業関係の仕事に従事していた。而も救護の最前線に立って、一ケ月程というものは、夜も殆ど脚袢も脱がずにごろりと寝た。玄米飯のむすびを食い水を飲みつつ、朝疾くから夜遅くまで駈け廻った。頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った垢まみれの破れ衣の人々が、右往左往する有様や、路傍や溝渠の中に転がっている焼屍体の臭気が、今でも鼻先にチラついている。(以下略)」と記している。

1938(昭和13)年7月、亀一は神戸職業紹介所所長として転出。1944年退任。その後は東京の鉄鋼統制会嘱託となり、戦後は薬剤による清掃事業を経営するなどして、1971(昭和46)年、88歳で没。

上記のほか著作として『「海女の生活」の研究』などを残した。

参考文献:『日本社会福祉人物史 上』(1987年、相川書房)など

原田定市

以下、昭和36(1961)年8月18日付神戸新聞淡路版より引用する。

洲本と沼島(南淡町)を結ぶ愛の定期便「原田丸」が、このほど三たび新造、その名も「第三原田丸」として就航した。まったく利益をともなわない航路だが、船主は「この定期便がなくなると、離島沼島は孤立する。最後のご奉公だ」とたくわえの私財全部を投げ出して新造、沼島の孤立化を防いだのだった。

この人は原田定市さん(七六)=南淡町沼島=もともと同町北阿万の出身で、今から約四十年前、仕事(当時電気技師)の関係で沼島に住みつくようになった。そして、一時は役場に勤め、電気商や精米商などを営んでいた。いわば“他国者”だったが地元民は人格者原田さんに対して決して冷たい目で見なかった。かえって親切にされて事業は伸び、のちに村会議長(沼島村当時)にも選ばれた。当時沼島は、全くの孤立状態だった。原田さんは「沼島で何一つ不自由なく暮らせるのは島の人たちの親切にほかならない。せめてもの恩返しに、人々の交通の不便を何とかしたい」と考え、二十一年(引用者注:1946年)に私財を投じて二十一トン、定員二十人の小さな木造貨客船「第一原田丸」を洲本港へ通わせ始めた。

中灘(南淡町)などにも着けて、辺地の人々を喜ばせた。しかし二代目の船「第二原田丸」も、使用に耐えなくて危険になり、海運局から警告を受けた。だが、辺地の人口は少なく、全然もうかる航路ではないので四百数十万円もする建造費のメドがつかず、廃止もやむを得ない状態となった。そこで、原田さんは「最後のご奉公だ」と周囲の反対をも押し切り、老後のためにたくわえていた私財を投げ出し、足らぬ分・・・・・

定市は1886(明治19)年、現在の南あわじ市北阿万稲田南(当時は三原郡稲田村)に生まれた。兵役(1906年~1915年)や北阿万村役場勤務・精米所経営を経て、1921(大正10)年、沼島村村長に乞われ沼島へ単身赴任。後に妻も沼島へ渡り、定住することになる。

1935(昭和10)年から1940年まで沼島村会議員。1946(昭和21)年、沼島洲本間の定期航路を開設。1967(昭和42)年、享年82歳で亡くなった。

沼島洲本航路(南淡汽船、原田丸)の経営は、娘婿の原田桂に引き継がれた。1969(昭和44)年1月、千鳥丸の浜本汽船(沼島-福良)、若島丸の山内汽船(沼島-灘土生)と合併し、沼島汽船株式会社を設立。3航路の合併は、離島航路に対する補助金交付の条件として求められたものであった。

2010(平成22)年11月現在の登記簿によれば、沼島汽船株式会社は資本金2019万円、代表取締役は古谷嶽氏(原田桂の娘婿)である。

現在の沼島汽船は沼島-灘土生間を1日10往復している。
沼島-洲本間の航路(洲本線)は、乗船人数の減少により、平成28年4月から休止となった。

  

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