淡路島・南あわじ市の司法書士・行政書士 安田知孝事務所/不動産登記・会社法人登記・相続・遺言・債務整理・裁判関係・農地関係ほか

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武岡豊太

出生から明石郡役所時代まで

1864(元治元)年、三原郡伊賀野村(現南あわじ市北阿万伊賀野)に生まれる。
父・幸蔵(幸之助?孝之助?)は、阿波藩士原専左衛門忠直の子であり、賀集珉平の斡旋によって武岡家の養子になったという。武岡家は、いわゆる「五反百姓」の家であった。

14歳で小学校の授業生(補助教員)になり、後に賀集小学校の訓導(教諭)となった。
その後、村治にあたらした方が郡のためだろうというので、戸長役場の方へ引き上げられたという。

18、19歳のころ(1881年、1882年ころ)、父・幸蔵は、藍商として九州に支店を構えていたが、筑後辺りで病死してしまった。豊太は、その死後を承けて当地に数年居り、取引を完結させて淡路へ引き揚げたという。

1886(明治19)年7月、三原郡国衙村出身(もとは都志の西野家の生まれで国衙の藤井家に入った)で県会議員であった藤井一郎が明石郡長に就いた。このとき、藤井の引き立てで豊太は明石郡役所学務係に抜擢された。
翌年12月、藤井は明石郡長を退き(県属に転任)、後任に渡邊徹という人物が就いたが、豊太は渡邊にもかわいがられた。

渡邊は、1841(天保12)年、越前府中本多家(福井藩松平家の筆頭家老)の家臣渡邊良右衛門の三男として生まれる。のち、大坂の国学者・渡邊資政の養子となった。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、1863(文久3)年8月18日の政変による七卿落ち(三条実美、東久世通禧、錦小路頼徳らが長州に落ち延びた事件)にも随った。1864年、錦小路頼徳が長州で死去した後は、東久世通禧に仕えた。維新後は、各県の参事などを務めたが1877(明治10)年官を辞し実業家に転じる。1880(明治13)年から各地の郡長を務める(1880年から武庫郡・菟原郡の郡長。1885(明治18)年から飾東郡長。1887(明治20)年12月から明石郡長)。
渡邊は、長州の品川弥二郎にも近く、豊太はのちに渡邊を介して品川や東久世通禧に知られた。

実業界へ

渡邊は1889(明治22)年1月、1年余りで明石郡長を辞任した。このときに豊太も渡邊に随って御影へ移った。

その後渡邊は、御影で自ら酒造業を営む一方、初代の御影町長(1889~1890年)、衆議院議員(1892年2月~12月)、全国酒家大会(全国酒造組合連合会)会長(1891年~)、摂州灘酒家銀行頭取(1892年)、神戸貯蓄銀行専務取締役(1895~1910年)などを務めた。1908年、経営する神戸貯蓄銀行の破綻が表面化、休業。同じころ、酒造業を廃業。1913年死亡。

1891(明治24年)2月、東京で第1回全国酒家大会が開催されたとき、豊太は、灘五郷の総代(代表)として出席している。
1892(明治25)年、摂州灘酒家銀行に手形事故があり、動揺があった。このとき(同年11月)、渡邊が頭取に推されて就任した。その際、豊太は、渡邊に指名されて一等書記(支配人)となったという。渡邊や豊太は、難局の対応に当たり、破産の危機にあった銀行を正常化する緒を作ったという。
また、このころ、豊太は米屋を開業したという。

兵庫共済株式会社(和楽園)の経営

1892年ごろ、豊太は、兵庫共済株式会社の社長に就任した。兵庫共済は、神戸の一流の人たちが関係していた会社で、1890年から和田岬において和楽園という遊園地を経営していた(登記簿によれば、兵庫共済の会社の目的には「和楽園ト称スル遊園内ニ望眺ノ高閣并ニ旅館生洲等ヲ設置シ衆人ノ便宜ニ供ス」とある)。しかし、その経営が振るわなかったので、「やり手」との評判のあった豊太に社長の椅子が回ってきた。これには渡邊の推挙があったという。

1895(明治28)年4月から7月の間、京都で第4回内国勧業博覧会が開かれた。この際、その協賛事業の一つとして兵庫共済株式会社は、和田岬に水族館(水族放養場)を設けた。市の名義での事業とし、実際の運営は市の監督指導を仰ぎながら会社で行ったようである。
会期の終了後(10月)、兵庫共済株式会社は、それまで国から賃借(但し、博覧会の会期前後は無料借用)していた和田岬の土地1町3反5畝6歩(和楽園敷地)について、1307円21銭7厘(地上の松の代金含む)で払い下げを受けた。売買契約には、「水族放養場を永遠に保存し、公衆の観覧に供する目的に使用すること、その事業を廃止又は中止したときには買戻しができること」などの付属条項が付いた。

1897(明治30)年9月1日から11月30日まで、神戸市で第2回水産博覧会が開催された。博覧会の会場は楠町旧鎮台屋敷跡(現在の神戸大学医学部附属病院のあるところと思われる)であったが、その付属水族館が和楽園に設けられた。
この水族館が、日本最初の(本格的な)水族館ともいわれている。明治36年発行の『堺水族館図解』(第五回内国勧業博覧会堺水族館事務所)に「明治三十年に第二回水産博覧会を神戸に開きし時に、東京大学教授の飯島博士の設計になれる水族館を、和田岬に設けられしは、我が国水族館の最初と謂うべきもの…」とある。

その後、1902(明治35)年、水族館は湊川神社の境内に建物ごと移転。兵庫共済株式会社が引き続き経営したという。「楠公さんの水族館」と愛称され、1911(明治43)年2月12日の閉館まで続いたという。
会社登記簿によれば、兵庫共済は1907(明治40)年に解散・清算結了しているので、兵庫共済が経営していたのは、長くとも1907年までということになる。

和楽園の敷地約3万坪は、三菱造船所の用地に売却され、兵庫共済は立派に解散したという(三原郡史)。
三菱合資会社神戸三菱造船所は、1905(明治38)年に操業開始。この前に土地を三菱に売却したことになる。

湊川改修工事

(作成中)

聚楽館の経営

旧湊川の川敷の埋め立てによってできた「新開地」はその後神戸一の繁華街として栄えていくわけである(ただし戦後その賑わいは三宮に移っていく)が、その繁栄の中心となったのが聚楽館である。聚楽館は1913(大正2)年、東京の帝国劇場をモデルに演劇場として建てられた。豊太はこの聚楽館の経営にも関わった。
『人事興信録』(1928年)に、「破産に瀕せる聚楽館社長として整理を断行し其籌略当を得」とある。
聚楽館株式会社の会社登記簿によれば、聚楽館株式会社は、1912(明治45)年2月設立。設立当初の会社の目的は、「講演、集会、展覧会其他団体ノ宴席等ニ貸与シ又ハ歌舞音曲演芸等ヲ開催シ入場料ヲ徴シ一般衆庶ノ観覧ニ供スルヲ以テ営業ノ目的トス」とある。
当初の役員に豊太は入っていないが、1914(大正3)年10月から1915(大正4)年4月まで取締役。1916(大正5)年5月、再び取締役に就任。以降1929(昭和4)年9月まで13年間取締役の地位にあった。そのうち社長であった期間は登記簿の記載からは分からないが、1924(大正13)年以降は取締役の筆頭として記載されている。

聚楽館は、1927(昭和2)年から映画の上映を始めたという。
1929(昭和4)年、聚楽館は松竹に身売りした。おそらく聚楽館株式会社の株式を松竹側が買い取ったのであろう。

登記簿によれば、このとき、取締役の豊太が辞任するなど、役員が一新されている。それまでは、神戸に住所のある者が役員のほとんどを占めていた(設立時の取締役は、兼松房治郎、瀧川辨三、直木政之介、田村新吉、小田久太郎の5名、後の取締役中には、鈴木岩治郎、呉啓藩の名も見える)のが、この一新以降は、白井松次郎(双子の弟・大谷竹次郎とともに松竹合名会社を興した人物)、白井信太郎(白井松次郎の弟)らが取締役に就いている。

その後の聚楽館の歩みについて触れると、以下のとおりである。
1934(昭和9)年、新聚楽館竣工、5階建、映画専門に、スケート場を併設
1936(昭和11)年8月、聚楽館株式会社は、松竹キネマ株式会社に合併される
(松竹キネマ株式会社は、1937年、松竹株式会社に商号変更し、現在に至る)
1978(昭和53)年、聚楽館閉館
2001(平成13)年4月、株式会社大京により、聚楽館跡地に大京聚楽館ビル竣工。株式会社ラウンドワンに一括賃貸され、同社がラウンドワン新開地店として経営。

大倉喜八郎と大倉山

豊太は、湊川改修株式会社の取締役でもあった大倉喜八郎とも深い交流があった。

1909(明治42)年10月、伊藤博文がハルビンにおいて安重根に暗殺された。
このとき、神戸の有力者たちは、神戸に伊藤の銅像を再び建てようとした。
(すでに1904年、湊川神社内に銅像が建てられていたが、1905年、日露戦争の講和反対の群衆に引き倒された。)

伊藤の銅像は、諏訪山金星台に建てられることに決まり、計画が進められていた。
1910(明治43)年6月、大倉喜八郎は、伊藤を偲んでハルビンに赴き、弔った後、帰国して神戸の安養寺山の別荘にとどまった(大倉は、日清戦争後に安養寺山の約8000坪の土地を買い取り、広大な別荘を建てていた)。この際、大倉は、諏訪山の伊藤の銅像の建設予定地を豊太らとともに見に行き、帰った後、大倉と豊太は、次のような会話を交わした。
大倉「(略)唯老若男女態々登らざれば見るを得ず、未だ好適所といい難し。此意味より唯今車中にて考うるに、此山荘に建設せば優れりと思う如何。」
豊太「それは有難き御好意、(略)。然れども富豪の別邸内に元勲の銅像を建つるを聞かず、ご寄附に相成りますか。」
大倉「予は今年七十三なり。今後十年位は此所に寝泊まりが出来ると思う。それさえ差支えなくば差上げましょうか。」
豊太「贈るに其事を附言せば、神戸市に於いてもあなたの御来宿を歓迎するは申上ぐる迄もなからん。」
大倉「然らば寄附しましょう。」
豊太「明日知事を訪い御厚意を伝えますが、御異変は御座りませぬな。」
大倉「いうてくだされ。」
豊太「御厚意に対し市民の一人として御礼を申上げます。此御話を取次ぎまするに際し、私の愚考として、安養寺山を大倉山と改称し、御姓を不朽に伝えんことを附言いたしましょう。」
大倉「それは兎も角も。」
この対話は、2、3分にして、ビール一杯を飲みほさない間にあった。(『鶴翁餘影』より)

かくして、大倉は、安養寺山の別荘地を寄付することになり、同年7月5日付で神戸市長宛てに寄附申込書を提出している。
寄付の条件として次の条件が付けられている。
1、寄付地は神戸市において、永遠に公園とすること
2、公園内に伊藤博文の銅像建設を承諾すること
3、寄付地上に現存する建物は、土地と同時に寄付をするが、10年間はそのまま存置し、かつ、大倉による自由使用を認めること 
 
伊藤の銅像は、1911(明治44)年10月26日に除幕式が行われた。なお、銅像は、第二次大戦中に金属供出され、現在は台座だけが残る。

安養寺山は、大倉山と改称され、大倉から寄付された土地は、大倉山公園となっている。

その他

(作成中)

(淡路銀行、和田性海のこと)
(国史の研究、浮世絵の収集、和歌、松浦辰男、etc)

1924(大正13)年紺綬褒章受章。
1931(昭和6)年、享年68歳で病没。

没後、1938(昭和13)年に建てられた豊太の頌徳碑が、北阿萬農業会館(旧北阿萬農協)(あわじ島農協北阿万支所の移転前の事務所)の前にある。

頌徳碑の建っているところは、もとは北阿萬村役場のあったところで、この役場の敷地を豊太が提供したという。実際登記簿を調べると、1917(大正6)年に豊太の母から北阿萬村へ無償で提供されたことになっている。(その土地の広さは、3,000㎡に及ぶ)

(参考文献)
  

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